二回裏:沢村栄治の伝説
2009.5.17更新 小田野 柏の証言を追加
伝説1:バントがセンター前ヒットになった。
これは半分本当だが半分ウソである。この伝説のソースは南村不可止(市岡中‐パイレーツ‐ジャイアンツ)。対戦した沢村の球があまりにも速いのでセーフティーバントしたところ、「カーン」と快音がして、ライナーがレフト前に抜けた、というのが証言。いくらなんでもセンター前までは投手・二塁手・遊撃手の3人を抜かねばならず、距離も遠い。セーフティーバントしようとすれば三塁手は当然前にダッシュしてくるはずだから、バントのしそこないで芯に当たった打球が三塁手の頭を越えてもそう不思議ではない。もちろん豪速球に対してそうなったときに限られるだろうが。この話など大体何km/hくらいの球だと三塁手が取れないようなライナーで飛んでいくものなのか、ピッチングマシーンで実験してみると、沢村の球速を推測する手がかりになるかもしれない。それにしても本当の話がレフト前→センター前と話が膨らんだおかげで信用されなくなってしまうという…。典型的な神話の誕生物語である。画像は南村不可止。動画を見たい方は「動画日本野球殿堂」にアップしてあります。
伝説2:ファーストボールが2段に伸びた。
これが眼の錯覚であることは、現在では常識である。したがって、ファーストボールが2段に伸びて見えたからといって、沢村の球が現代の投手より速いという証明にはならない。しかし、沢村の球が当時のほかの投手よりいかに速かったか、という証明にはなるだろう。打者にインプットされている通常の速球の球道に対する予想を2回裏切るわけだ。明倫小‐京都商時代の捕手山口千万石の「球2つ分ホップした」という証言も、やはり同じ意味だろう。「1段伸び」「球1個分ホップ」が10km/h増し、と考えるのは昔の野球好きの妄想だろうか。自分の体験からいえば極めて信憑性のある説なのだが。つまり、沢村の速球は当時の並みの投手より20km増し、ということである。当時の並みの投手、というと、画像が豊富に残っている投手から判断するしかないが、戦前・戦後を通して豊富な画像が残っている投手はただ一人、「七色の変化球」若林忠志(マッキンレー高‐本牧中‐法政大‐コロンビア‐タイガース‐オリオンズ)だけである。読者諸氏は彼の速球を見て何km/h台と考えられるだろうか。筆者には120km/h台に見えるのだが…。もっとも若林は現代の星野伸(ブルーウェーブ‐タイガース)のような存在だったのかも知れない。画像は若林忠志。動画を見たい方は「動画日本野球殿堂」にアップしてあります。
伝説3:ベース板の手前目がけて投げたら真ん中のストライクになった。
これは沢村自身が言った言葉として青田昇が証言している。投手の実感を表現したことばだから貴重である。尾崎行雄(浪華商‐フライヤーズ)は捕手の膝めがけて投げると真ん中に行ったというし、堀内恒夫(甲府商‐ジャイアンツ)はミット目がけて糸を引くように真っ直ぐ吸い込まれていったという。だから、堀内よりは尾崎、尾崎よりは沢村が上、ということになっている(『サムライたちのプロ野球』)。沢村の速球がいわゆるrising fast ballであったことだけは確かだろう。だが、沢村の速球の握り方は通常言われているriserの握り方ではない。浮き上がる速球は普通4シームで投げろと言われる。ところが、沢村の速球の握り方は、2シーム、というか、2シームですらなく、人差し指が縫い目に掛かっていない。不思議な握り方である。写真を掲げるのでよくご覧いただきたい。
これでなぜ浮き上がるのか、思わず「ジャイロ」という言葉が脳裏に浮かぶが、理屈が納得できない世界には頭を突っ込まないことにする。
伝説3:ドロップが3段に落ちた。
これはドロップのブレーキの鋭さを表した言葉である。沢村のドロップは「2段に落ちた」「3段に落ちた」といわれる。または「懸河のドロップ(急流のように落ちるドロップ)」とも。だが、沢村のドロップの最大の特長は伝説4に挙げたことだろう。
伝説4:ドロップのスピードが速球と変わらず、一回浮き上がってから1尺落ちた。
三原脩(高松中‐早稲田大‐ジャイアンツ‐ライオンズ‐ホエールズ‐バファローズ)は沢村と他の投手の違いを表現して、「速球とドロップのスピードが変わらなかった」と言っている。また、多くの打者たちが、「一回浮き上がってから1尺(30cm)落ちた」と証言している。これはどうも筆者の「ドロップ」のイメージではない。ドロップといえば、松井栄造(県岐阜商‐慶応大‐戦死。動画を見たい方は「動画日本野球殿堂」にアップしてあります。)は「3尺」とあだ名があったくらいで、同時代だから明らかに落差はこちらが上である。権藤正利(柳川商高‐ホエールズ‐タイガース)や権藤博(鳥栖高‐ブリヂストン‐ドラゴンズ)らのドロップも映像で見ると打者の体感からすれば3尺くらい曲がったろう。実際現代の投手でも工藤公康(名古屋電気高‐ライオンズ‐ジャイアンツ)のドロップはそう見えるのではないだろうか。沢村の「ドロップ」は証言から考えるとこうしたドロップとは質の違う球のようで、むしろ現代でいう「縦スラ」ではないかという気がする。事実、沢村のドロップの握りは現代の投手のドロップと明らかに握り方が違う。沢村のドロップの握り方を掲げておく。
伝説5:沢村は二の腕に杯を置いて腕を内旋させても杯が落ちないほどの猿腕(外反肘)だった。
最近は言われなくなったが、昔は外反肘は好投手の条件と言われていた。沢村も金田正一(享栄商‐スワローズ‐ジャイアンツ)も極端な外反肘である。外反肘の投手は自然に腕を引き上げても自然に内旋するし、アーム式で腕を振っても自然に腕がしなる。現代の投手たちがコーチに言われて意識してやっていることを自然にできるわけである。昔、「素質のある人間にしか速い球は投げられない」と言われたのは、こういった肉体的条件も含んでいわれていたのだろう。
伝説6:沢村の腕には注射針が通らなかった。
このことを取り上げて「沢村は身体が固かったのでケガをしやすかっただろう」という人がいるが、これは注射針が刺さろうとして筋肉が緊張しているときの話だろう。足が楽々目の上まで上がる沢村の身体が固いはずがない。鍛え抜いた筋肉は収縮させると注射針も通らないという話として素直に受け取ったほうがいいだろう。実際多田文久三(高松商-ジャイアンツ)が「握ってみろ」と言われて握った右腕前腕部は石のようで、親指に力をこめて押さえてみても、へこむどころか跡形もつかない。まるで机の上を押さえているような感じだったという(小川卓『職業野球の男たち』)。画像は多田文久三。動画を見たい方は「動画日本野球殿堂」にアップしてあります。
伝説7:沢村は1試合31三振を奪った。
これは紛れもない事実。しかも相手は当時の強豪市岡中学(当時日本一の投手といわれた伊達正男の出身中学。戦後もたまに古豪として甲子園に登場することがある)。ただし、練習試合で、延長13回(一説には15回)の記録。しかも、味方も相手投手から点を取れず、引き分け。沢村は小学・中学・プロと、終始バックの貧打に泣かされることになる。それにしても、延長13回というと、36アウト。そのうち31が三振というのだから、いくら練習試合とはいえ、すごい。34年夏の地方予選では48回で97三振。準々決勝の京都一工戦では29打数23三振。しかもノーヒットノーラン。レベルの高い関西地区での試合であることを考えれば、甲子園での坂東英二(徳島商高‐ドラゴンズ)の延長18回25三振(対魚津高)や江川卓(作新学院高‐法政大‐タイガース‐ジャイアンツ)の延長13回23個(対柳川商高)に匹敵する記録といってよい。
伝説8:沢村は手榴弾を80m投げた。
正確には78mで、連隊対抗手榴弾投げでダントツの優勝を飾り連隊長賞を受賞したと新聞に報じられたという(青田昇『サムライたちのプロ野球』)。ほかにも証言者がいるから事実だろう。それにしても…。野球のボールは141g、手榴弾はその3倍以上の500gある。そんなものを80m近く投げられる沢村の肩も強いが、投げ続ければどんなに強靭な肩も壊れてしまったに違いない。沢村のように登板過多ならいずれ故障しただろうが、野球以外で故障して投げられなくなった彼の苦悩はいかばかりだっただろうか。画像は日本軍で使用していた97式手榴弾。
伝説9:全日本の六大学組から27球9連続三振を奪った。
昭和9年、日米戦前の合宿4日目、レギュラーバッティングに登板した沢村は、二出川延明、苅田久徳、水原茂、山下実、中島康治、久慈次郎、三原脩、井野川利春、伊達正男という、当時の錚々たる六大学のスターたちから9連続3球三振を奪ったという。いくら何でもこれは事実ではないだろうが、最初の1巡目は誰もまともに当てられなかったのは事実らしい。画像は山下実。
伝説10:沢村がボールを放すとき、「ピチッ」と音が聞こえた。
これも『職業野球の男たち』に載っているエピソード。白石勝巳(広陵中-ジャイアンツ-パシフィック-ジャイアンツ-カープス・カープ)はジャイアンツ草創期の遊撃手として、沢村のピッチングをつぶさに見てきた数少ない一人である。ライオンズが台湾からスカウトした郭泰源を売り出した頃、ラジオの解説者が「郭のピッチングをそばで見ていると、彼がボールを投げる瞬間、ピチッ、ピチッという音がするんですね」そんなふうに話すのを耳にした白石はオヤ?と首をかしげた。「実際にわしは、その音を聞いたことがある。」しばらく考えてから、「そうだ」と白石は膝を打った。「沢村だ。沢村栄治だ!」それは彼とキャッチボールをしていて耳にした音だ。爪でも伸ばしているのかと思って見てみたが、指先はきれいに手入れされていたという。もっとも、音に関しては尾崎行雄(浪華商高-フライヤーズ)が上で、彼がボールを離すときはスタンドから「バシッ!」という音が聞こえたらしい。あまりの摩擦に尾崎は指先のマメが原因で投手生命を縮めるのだが。画像は白石勝巳。動画を見たい方は「動画日本野球殿堂」にアップしてあります。
伝説11:沢村のドロップはボールに細工していると疑われた
第一回米国遠征中、バトルクリーク・ポスタムズとの試合中の出来事。翌年大リーグ入りするブラント投手と投げ合って一歩も譲らず0-0で引き分けた試合だが、延長10回、沢村がドロップを投じた直後、打者が審判に要求してボールをつぶさに調べるという一幕があった。ボールを交換してプレーが再開されたが、次の投球はまたもドロップ。打者はこの球を見事に三振して恥の上塗りをした。スピットボール(唾をつけたボール)・エメリーボール(傷をつけたボール)・シャインボール(磨いたボール)・マッドボール(泥を塗ったボール)は平凡な投手を一躍姪投手にするほど鋭く変化するが、この時代にはすでに禁止されていた。沢村のドロップがあまりにも鋭いので、こうした不正行為を疑われたのだろう。画像はスピットボールの名手レッド・フェイバー。
伝説:沢村の速球に関する証言(待つ、読者情報)
※証言者の経歴がクドクドしつこいのを我慢いただきたい。これだけ長い間あちこちで野球をしてきた人たちが沢村を1投手として挙げていることを知ってほしかったのだ。
「杉下のフォークを逆さまにしたように直球が浮いてきました。」
:野口明(投手・捕手:明治大‐セネタース‐大洋‐西鉄‐ブレーブス‐ドラゴンズ)
「沢村さんの球をとると、掌が腫れないで左手の甲が紫色に腫れあがるんですよ。速かったなあ。」
:中山武(捕手:享栄商‐ジャイアンツ)
「どんなピッチャーが出てきても沢村には及ばん。少し似ておったのは、中日の権藤博(鳥栖高‐ブリジストン‐ドラゴンズ:1年目35勝2年目30勝、「権藤権藤雨権藤」「ドロップの権藤」とも)だが、帯(ベルト)から下の球が違う。」
:石本秀一(広島商‐タイガース監督‐カープ監督。動画を見たい方は「動画日本野球殿堂」にアップしてあります。)
「(2度目のノーヒットノーランを喫して)前年のときより遥かに球速があり、球が途中から二段階に浮き上がるような感覚を受けた。これに目標を置くと、今度は大きなドロップにタイミングが合わなくなる。完全に抑えられたよ…。」
:松木謙二郎(敦賀商‐明治大‐名古屋鉄道局‐大連実業団‐タイガース選手・監督)
「全盛期の沢村の速球はほんとうによく伸びて、低目からググッと浮きあがってきたものです。150キロは軽く超えていたでしょうね。速さもすごいが、とにかく伸びがものすごかった。わたしは二年間、打者として対戦したんですが、とにかく球に合わせるだけのバッティングを心がけたものです。球質は軽かったので、当てただけでもよく飛びましたね。もっとも、当たればの話ですがね。」
:島秀之助(第一神港商‐法政大‐金鯱軍‐セリーグ審判部長)
(「一番速いと思った日本のピッチャーは誰ですか」という問いに答えて)「日本でなら、沢村の球は速いけど軽かったね。150キロは出てたけど、打てばギューンと飛んでった。」
:苅田久徳(本牧中‐法政大‐ジャイアンツ‐セネタース・翼・大洋‐フライヤーズ‐オリオンズ‐パールズ‐オリオンズ)
「金田と沢村ではどちらが速いでしょうか、稲尾の球は…といった質問を幾度となく浴びせられてきた…私は躊躇なく沢村が1と答える。金田も速かった‐江夏の絶好調のときの速球も一流だ…しかし、沢村には及ばない…これは伝説的人物に対する私の美化作用ではない…本当に沢村の球は速かったのである。」
:三原脩(高松中‐早稲田大‐ジャイアンツ選手・監督‐ライオンズ監督‐ホエールズ監督‐バファローズ監督‐アトムズ監督)
「満州の球場で沢村投手を見ました。(「速かったですか」という質問に対して)うーん、左手にケガをしていらっしゃって。(質問には答えず。)」
:匿名希望(筆者の患者さんの奥様)
「確かにスタルヒンは速かったよ。ズドンという重いボールで威圧感ちゅうものがあった。しかし何とかバットに当てることはできたんだよ。ところが沢村のいい時は、高目のボールがグーンと伸びてきてかすりもせん。ワシはアメリカのピッチャーとも何度か対戦したけど、あれほど伸びのあるボールを投げるピッチャーはおらんかった。なにしろど真ん中のボールが当たらんのやから。ワシらは戦争に巻き込まれた世代やけど、よく皆で“銃弾と沢村のボールはどっちが速いか”なんて話もしましたよ。ホンマそのくらい速かったんや。」
:藤村富美男(呉港中‐タイガース選手・監督。動画を見たい方は「動画日本野球殿堂」にアップしてあります。)
「速球の場合は大げさにいえば地上スレスレに来そうに見えて打者の近くでグッと浮上がって胸元へと来る。よほど逆回転が強くないとあれほどにはホップしないものである。だから沢村は『ぼくは真ん中の直球だけで勝負できる』 と豪語していた。」
:竹中半平(医師:戦前からの野球ファンで野球評論家)
「打者の肩口の高さに投げた速球が、内堀さん(ジャイアンツの捕手)のミットの上をかすめると、そのままバック・ネットに直接ぶつかったのには、またまたおどろいてしまった。」
:楠安夫(捕手:高松商‐ジャイアンツ)
「君の球はそんなにスピードがあるわけではないが、自然に浮き上がってきて打ちにくい球だ。あれでもっとスピードが出たら大変なものだ。」
:高須武之介(三高野球部‐京都商コーチ:初登板の後で)
「(新人の堀内恒夫:ジャイアンツと比較して)球の伸びが全然違う。沢村は外角低目へショートバウンドになりそうなストレートでも、構えたミットの土手をかすめていったことが何度もあった。捕り慣れている捕手の目測を狂わせるくらいストレートが手元にきてぐっとホップしたわけだ。」
:内堀保(捕手:長崎商‐ジャイアンツ)
「沢村の球というのは、極端にいうと二段にノビてくる、節があるようにですね。スイングするとバットが球の下を通ってしまうような気がしました。あのノビは残念ながらその後の投手には見られません。素質ということもありますが、やはり若いときの鍛え方がちがうんでしょうかね。」
:松木謙治郎(敦賀商‐明治大‐名古屋鉄道局‐大連実業団‐タイガース主将・監督)
「いいピッチャーだった。球は速かった。ドロップはびっくりするくらい落ちた。すごいピッチャーだとみんながいっていましたね。でも、抑えられるばかりじゃなかったんですよ。打てた。ぼくは太いバットを使っていましたね。それでポイントを前にしぼってバットを振り切った。低目の球には手を出さずに、ホップしてくる球をレベルスイングで打った。ぼくは自分の力を知っていた。その力で相手に勝つ方法を知っていた。昭和13年かな(筆者注:沢村は出征中で登板せず)、ぼくは沢村をパーフェクトに打ちこんでいるんですよ。
:カイザー田中(ハワイ大‐タイガース‐オリオンズ‐タイガース監督)
「沢村がね、球が早いったてね、あんなのはカモ中のカモだったよ。球が軽かったからよく飛んだんだ。やっぱり球が重かったのはスタルヒンだね。でも、あいつはコントロールがねぇんだ。沢村は大きなドロップと150キロくらいの速球が武器で、まあ、確かに当時は六大学にも実業団にもあんなに速い球を投げるヤツはいませんでしたがね。ところがアメリカに行ったら、そんなのはゴロゴロいるの。驚いたねぇ」
:苅田久徳(本牧中-法政大-ジャイアンツ-セネタース・翼・大洋-大和-フライヤーズ-オリオンズ。動画を見たい方は「動画日本野球殿堂」にアップしてあります。)
「沢村の球には、打者の手元にきて、ぐっと落ちるのと、ホップする球がある。彼ら(米国の打者)に対して胸元へ速球を投げると、ホームランを打たれることがあったが、沢村が胸元へ投げたのは、ほとんど凡フライになった。それだけ球にのびがあり力があった。沢村の名前は聞いていたが、確かに素晴らしい快速球でしかも球に重みがあり、フォームも彼ら(米国の投手)に対して全くひけをとらない豪快でダイナミックなものだった。」
:白石勝巳(広陵中-ジャイアンツ-パシィフィック-ジャイアンツ-カープス・カープ選手・監督-ジャイアンツコーチ。動画を見たい方は「動画日本野球殿堂」にアップしてあります。)
「(昭和12年秋の東西対抗で初めて沢村を見て)球の速さには茫然たる思いであったぞな。古屋、畑福、菊矢とか、三、四人の投手が投げた後に沢村投手が出たのですが、まるで速さがちがう。オーバーないい方でなく、倍くらい速い-そんな感じだったことを覚えておりますよ。前に投げた投手だって、吾輩には驚くほど速く感じられたのに、その倍の速さと正直思ったのですから、まさに想像を超える”伝説の人”のスピードでありました。鈍行ばかり見ていた人が、新幹線ひかり号を見たら、こんなおどろきかたをしたのではありますまいか…。」
:千葉茂(松山商業-ジャイアンツ選手-バファローズ監督。動画を見たい方は「動画日本野球殿堂」にアップしてあります。)
「(上の千葉の言葉に対して)千葉ちゃん、なにいうとるんや。それは十二年の秋やろ、ソラもうあかんようになってきたときや、あんた、沢村の本当に凄かったんは、十二年の春までやで。その東西対抗のときに驚いたなんていうたら笑われるで…。」
:松木謙治郎(敦賀商‐明治大‐名古屋鉄道局‐大連実業団‐タイガース主将・監督
「 単調になってくると、コントロールがいいだけに打てるんや。それに調子が悪くても、けれん味なくやってくるのが沢村のいいところ、そうしたときは打ち込めたな。」
:松木謙治郎(敦賀商‐明治大‐名古屋鉄道局‐大連実業団‐タイガース主将・監督
「ぼくは野球を長い間やってきて、あんなに速い球を見たのは沢村が初めてですよ。谷津の海岸で全日本チームができたときにピッチングを見たんですが、まあ、日本にもこんなピッチャーがおったのかというくらい速かった。…別所、金田、パ・リーグでは西村、宅和…そりゃ沢村が一番スピードがあった。外角低めにホップする球を投げていたんですから…。」
:中島治康(松本商業-早稲田大-ジャイアンツ選手・監督-ホエールズ監督。動画を見たい方は「動画日本野球殿堂」にアップしてあります。)
「(沢村もスタルヒンも)二人ともボールは全然速くなかった。だがね、一生懸命に投げていたよ。」
:小泉俊雄氏(幕末伝習塾管理人)の父上
「沢村のボールはスパッと小気味はよかったけど、軽くて怖さはなかった。しかしスタ公(スタルヒン)のはミットがズシンズシンと響く感じで捕るのが怖かった。速くて怖いボール。一番はスタ公だよ。」
:井野川利春(明治大-ブレーブス捕手・監督-パリーグ審判員)
「ふりかぶったときに、目をつぶって振る。そうじゃないととてもじゃないが、間に合わなかった。ストレートなんか、ワンバウンドするかと思ったら、ホップしてストライクになった。」
:金子澄雄(京都商業の1年後輩)
「球がずいぶん速かった。彼ならいつでもメジャーで活躍できただろうね」
:ミッキー・マイカワ(日系カナダ人チーム朝日のエースピッチャー)
「35年。東京ジャイアンツ。あの時はピッチャーが二人いました。沢村、ロシアの投手(筆者注:スタルヒンであろう)。2人ともとても上手でした。球がとても速くて。」
:キヨシ・スガ(日系カナダ人チーム朝日のマネジャー)
「沢村の球は速かった。低めの球が真ん中へ、ストライクゾーンの球は胸元に伸びてボール球になるほどでした。景浦さんの球も速かったが、球質が違っていた。」
:伊賀上良平(松山商−タイガース・阪神−スターズ−タイガース−電電四国)
「1933年のセンバツに台北一中の選手として出場した時、宝塚(兵庫)の練習場で見ちゃったんだよ。京都商の沢村栄治が豪速球を投げ込むのを。『こんな投手に勝てるわけない』って思ったね。おれの中では今でも沢村がナンバーワンだ。」
:山本英一郎(台北一中−慶応大−鐘紡他−日本野球連盟会長)
「ワンバウンドか、という低めがホップしてストライクになる。神から授かった球だと思った。」
:金子澄雄(京都商業の1年後輩)
「江川も野茂も松坂も速いが、沢村には及ばん。」
:山口千万石(明倫小−京都商で沢村の捕手)
「球が速いのなんのって、受けるというよりミットで止めるのが精一杯でした。実際、ミットを構えていても恐ろしかった。相手チームがようこんな投手に向かっていくなあって、妙な感心をしたぐらいですよ。」
:山口千万石(明倫小−京都商で沢村の捕手)
「栄ちゃんとの思い出になる品は何一つ残ってませんが、えらい形見をもらいました(無残に変形した左手を見せる)。」
:山口千万石(明倫小−京都商で沢村の捕手)
「沢村の球は速いだけじゃなくて、バッターの足元にきて、ヒュッヒュッと変化する。スピードが増すのか、とにかく変化する。それで打てないのじゃないか。」
:志村正順(NHKアナウンサー。動画を見たい方は「動画日本野球殿堂」にアップしてあります。)
「サワはスピードがあるし、コントロールも最高でね。気の強い男でね。強気強気で押しまくり、胸がスカッとするピッチングだったなあ。」
:筒井修(松山商−ジャイアンツ−セリーグ審判員)
「縄が勢いよく巻き戻るときの音と同じ音を出す球を投げていた。ヒュルンという音をだしてね。スピードは145〜155あたりだろうな」
:T.I氏(長年観戦とご自身でのプレーを続けられてきた方:この情報は広島の糸曽さんからいただきました)
「沢村の好調時の速球は低目のボール圏を走って、すっとアップしてストライクになる。多くの打者は、ボールを見て、早く眼を離すと、あっと云う間にホップしてストライク。こうして、直球がアップするのに、カーブは、グググと三段に折れ曲がって落ちる。昔の言葉でいうとドロップである。アップする球、落ちる球が鋭く交錯するから、打者はまごつかざるを得ない。」
:大和球士(野球評論家)
「球の種類はない。猛スピードと懸河のドロップで押し切った。いっぺんポーンと上がってからストンと落ちた。腕がムチのようにしなっていた。」
:南村不可止(市岡中-早稲田大-パイレーツ-ジャイアンツ)
「好調のときの沢村が投球すると、内野で守っている人たちには、ピシッ、ピシッという音が聞こえる。腕が付け根から太く、手首で急に細くなっているから、スナップが実によく利く。ピシッ、ピシッという音を聞くと、背後の内野手は”勝った”と思うのが常であった。」
:大和球士(野球評論家)
「一球目は高めに速球が来た。僕は高めが好きだったから思い切って振ったんだ。でも、速すぎて、こんな球は見たことも打ったこともなく、ホップするから掠りもしない。唸りをあげてボールがホームベースを通過する。ノンプロであんな速い投手に当たったことはないし、こいつは只者じゃないなと思った。(2球めは変化球に関する証言)次が三球目だけど、沢村は三球勝負で来たんだね。真ん中のコースの膝の高さくらいの低い球だった。ふつうの投手だったら二メートル前から次第に球速が落ちて低めのボールになるんですよ。僕はそう判断して見送ったわけだ。ところが彼の球は、そこからさっとホップしてくるんだね。あ、しまったと思ったらアンパイヤがストライクと判定した。僕が判定しても、これならばストライクだと思った。でもね、どうすればこんなに浮き上がるような球になるんだろうかと考えたんだよ。まだ十八歳の青二才だったがね。」
:小田野 柏(青森営林局−阪急軍−ユニオンズ)
「つまりボールの回転なんだ。投げてから捕手のミットに入るまで、何回転しているかということなんだな。ふつうの投手だったら10回転くらい。沢村の場合は15回はあったと思う。それだけ回転が多いわけだ。球質は軽かったが、ボールの縫い目を使ってすばやく回転を与えるように投げていたんだね。そうすればホップするんだよ。」
:小田野 柏(青森営林局−阪急軍−ユニオンズ)
「沢村投手の速球は150キロを超えていたと思う。しかも手元でグッと浮き上がった。見たこともない球だった。」
:山田悟(小倉工−福岡クラブ−高校野球審判員)
「あんなに速い球を投げる投手はいなかった。」
:ゲーリンジャー(デトロイト・タイガース)
「誰もどこから来るのかわからないホップする速球でもって、細い小柄な男はコーストリーガーから13三振を奪った。」:モーニング・オレゴニアン紙
「もっともセンセーショナルな選手は投手エイジ・サワムラ、日本のディジー・ディーンだ。…彼の体格からは信じられない球を投げる。目も眩むスピードボールがあり、おそらくはこの球場のホームプレートを通過した中でもっとも鋭く曲がる球があった。」:ワラワラ・デイリー・ブレティン紙
「沢村の投球にはスピードとカーブに抜群のコントロールをおりまぜた世界がある。」:スター・フィニックス紙
「沢村は150ポンドの日本の若者が200ポンドと同じスピードボールを投げられることを4000人の観衆に見せた。」グレート・ノースアメリカン・デイリー紙
「沢村はとんでもないピッチャーだった。」:ジョー須々木(二世チームLA日本の一番打者)
「フレッド・ミューラー、ジム・ブライアン、キース・モールズワース、ヒュー・マクマレンと、みなこれまで何度も大リーグの投手と渡り合ってきたが、声をそろえて言った。キッド・サワムラほどの球をもっているピッチャーにはお目にかかったことがない、と。」:オークランド・トリビューン紙
「この町でこれほどのスピードボールを見たのは1920年のボブ・グローブ(レフティ・グローブ:大リーグの左投手通算最多勝投手で、昭和6年日米野球に登板し、「球が見えない」と言われたのは有名)以来だ。」:オレゴニアン紙I.H.グレゴリー記者
「沢村はデトロイト・タイガースのスクールボーイ・ローに倣ってスクールボーイと故国では呼ばれるが、おそらく彼のピッチングは彼のアイドル「ロー」を凌いでいたろう。」:ムーン・ジャーナル紙
「彼氏(沢村)の威球は全く巨人軍救世主の感を抱かせるものがあった。そのスピードと鋭いカーブは破竹の勢いを以って敵を翻弄し薙ぎ去った。」:大北日報紙
「(戦地から帰還した沢村を見て)しばらく呆然と眺めていました。あれ、誰だろう?見慣れない、横投げのピッチャーなんていないから。沢村の、変わり果てた姿だった。戦争ってのは残酷なもんだなと思った。あれほどのピッチャーがこうなっちゃうのかと。本当に涙が出るようでした。」
:志村正順(NHKアナウンサー。動画を見たい方は「動画日本野球殿堂」にアップしてあります。)
「(戦地から帰還した沢村を見て)沢村さんのあの姿は見たくなかった。球が行かないんだもん。ピッチャーにとって球が行かない、こんな辛いことはないですよ。」
:多田文久三(捕手:高松商−ジャイアンツ選手−パールズ選手−フライヤーズコーチ。動画を見たい方は「動画日本野球殿堂」にアップしてあります。)
「彼は三回兵隊にとられて、三度目に死んでしまったのですが、軍隊から帰ってきてしばらくは、重い鉄砲はかつぐわ、手榴弾は投げるわで、肩が駄目になってるんでしょうね、メッタ打ちにあって…。それでも彼は気が強いもんだから、水さん、こんどはきっと、目にもとまらぬ速い球を投げてみせるからな、と登板しちゃ、またメッタ打ちにされて…。可哀想だったなあ…。」
:水原茂(高松商−慶応大−ジャイアンツ−フライヤーズ。動画を見たい方は「動画日本野球殿堂」にアップしてあります。)
伝説:沢村の変化球に関する証言(待つ、読者情報)
「沢村のドロップは天に上がる」
:坪内道則(外野手:大東京‐ライオン‐朝日‐ゴールドスター‐スターズ‐ドラゴンズ)
「とどめをさすのが、“懸河のドロップ”でした。」
:島秀之助(第一神港商‐法政大‐金鯱軍‐セリーグ審判部長)
「速球とドロップの球速が変わらなかった。」
:三原脩(高松中‐早稲田大‐ジャイアンツ選手・監督‐ライオンズ監督‐ホエールズ監督‐バファローズ監督‐アトムズ監督。動画を見たい方は「動画日本野球殿堂」にアップしてあります。)
「快速球にまぜるカーブが速力に差がないのが大きい威力…」
:橋戸頑鉄(早稲田大‐都市対抗野球を創設)
「ホームプレートの前のあたりで、一段ホップして止まったように見えて、それから鋭く落下するアウト・ドロップ。」
:楠安夫(高松商‐ジャイアンツ捕手)
「沢村はカーブを投げ過ぎている。あの球速変化のないカーブでは、どんなに鋭く曲がり込んでも、ビッグ・リーグの打者にはいつかきっと打たれる。カーブを投げるにしても一本調子ではいけない。球速変化が必要だ。沢村は現在直球のほうがよい。あのスピードで浮いてくるとちょっと打てない。だからベーブはみんなにカーブを狙わせたのだ。」
:ゴーメッツ(ヤンキース)
「目線を下げていてスピードボールをねらおうと思うと、ストーンとこう落とされるのですよ。そのドロップが、リストの非常にいい人でしたからね。一ぺんポーンと上がってからストーンと落ちる。落差が非常に大きいんですね。だからまぁ、アメリカじゃドロップといいませんけれども、カーブといいますけれど、ほんとうのカーブというのはあのことをいうのだと思ったですね。」
:南村不可止(市岡中-早稲田大-金港クラブ-パイレーツ-ジャイアンツ。動画を見たい方は「動画日本野球殿堂」にアップしてあります。)
「ドロップは肩から膝まで落ちるんや。だから最初から落ちる位置にミットを構えておく。」(筆者注:当時の捕手のこうしたレベルが全米軍に日本の投手が完膚なきまでに打ち込まれた要因の一つではないだろうか)
:山口千万石(明倫小-京都商の捕手)
「沢村はカーブを投げるとき、唇をかむような、口元をゆがめるようなクセがあった。沢村の速球にてこずっていた大リーガーたちはそれを見抜いた。一説には、速球に三振したベーブ・ルースが、『あのフック(カーブ)の曲がりっぱなを叩け』と言ったとも伝えられるが、7回、ゲーリックに直球でストライクを取ったあとの球が、口もとをゆがめたあとの大きなカーブだった。」
:池田恒夫(元ベースボール・マガジン社社長)
「二球目はインシュートみたいな球が内角に来たんだ。これはシュートだからぶつかると思ってとっさに両肘と上体を引いたら、急に球がカーブしてインコースぎりぎりにストライクゾーンを通って行った。避けたけど確かにストライクだよ。こういうカーブも投げられるのかという思いがして驚いた。シュートで完全なボールのコースを辿ってきて、ジャストミートできる位置までくるとさーっと曲がる。凄い投手だなと思った。」
:小田野 柏(青森営林局−阪急軍−ユニオンズ)
「京都スクールボーイのカーブは彼の背中のシンボル(漢字の背番号)のようにとらえどころがなかった。」ポスト・インテリジェンター紙